rewritable
春だったか秋だったか、季節は覚えていない
周囲は薄暗く、もうすぐ夕方が夜に追われる頃
自死を選んだ祖父の葬式
祖父が横たわる棺桶の中に白い菊だったか百合だったか花を一輪そっと入れる場面
そして、明かりのついた式場に人が出入りする様子を少し遠くから眺める場面
不安、恐怖、悲哀といった感情は一切伴わない
情景だけの記憶
人間の記憶というのは曖昧なうえ
自分の(生存に)都合の良いように書き換えられ保存されます
3歳の時期の私のこの「始まりの記憶」は
看護師を目指そうと考えた時期に
自分には幼少期から人の死に関心があり、因果のようなものがある、だからこうして今も高齢の方へのケアに関わりたいと思っている、そうだ看護師になってもっと役に立ちたい
…などと、おそらく都合よく結びついた記憶で
それ以降何度も澱が溜まった記憶のプールの底から掘り起こされては
さも事実のように、その理由付けが真実かのように
磨き上げられ大事にされてきました
しかし実はこれは自分が覚えている原初の記憶だったかどうかすら疑わしいものです
今考えたら、そう
最近になるまで、こうした記憶は
自分自身のその後の死生観を形作っている、とか
自身の死への恐怖はここから来ているんだ
など、色々考えた時期がありました
確かに私の心のどこかには
死への恐怖や不安が特別にあったんでしょう
マインドフルネスに取り組みだしてから
むき出しになったこうした不安の感情が時折突然自分の目の前に現れ
嫌でも対峙しなければならないことがありました
(しかし結局は観察を重ねて受け入れられるようになってからは、ほとんど固執しなくなったというか、関心が無くなったというか、捉え方が変わったというか「記憶は記憶」になってしまいましたが)
一番はじめの記憶に
何であんなに執着してたのでしょうか
何かしら原因はあるのでしょうが
あまり難しく考えても答えは出ないし
記憶や思い出がこれからの自分の行動に特に影響を与えるとも思えないので
考える優先順位としてはとても低いのです
葬式の話は大事にしたい記憶というものではないんです
使いすぎて刷り込まれているだけ
大事にしたいのはそうした鬱々とした記憶ではなく
大事にしている人たちとのこれからの思い出の記憶でしょうか
目の前の出来事も
自分の頭の中の記憶も
結局はそれを「どう意味付けするか」ですしね
記憶や思い出に特別に前向きな意味合いをもたせられなかったとしても
あえて変に気負うことも後ろ向きな理由を取ってつけることもないんですよね
どうせなら意識的に都合よく記憶を書き換えたいものです